自宅で髪を染めるときにまずやることは説明書を読むこと。もしも説明書がバラエティに富んだ文体で書かれていたら……? そこで『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』の著者である菊池良さんに太宰治、山田詠美、サン・テグジュペリ、林真理子、村上春樹の文体で白髪用ヘアカラーの説明書をオムニバス形式で書いてもらいました。
菊池 良
ライター・Web編集者。
学生時代に公開したWebサイト「世界一即戦力な男」が話題となり、書籍化・Webドラマ化される。
著書に『芥川賞ぜんぶ読む』、共著に『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』シリーズ。現在、『小学8年生』で「文豪探偵の事件簿」を連載中。
説明書の実際の手順はこちら
①皮膚アレルギー試験(パッチテスト)をやる
②必要なものをそろえ、汚れ対策をする
③混合乳液を作る
④乾いた髪に、混合乳液を塗る
⑤20分*放置して、洗い流す
さて、これを文豪たちが書いたらいったいどうなるのでしょうか……?
*説明書に記載のある放置時間、放置してください。
太宰治「パッチテスト失格」
〜皮膚アレルギー試験(パッチテスト)をやる〜
髪の多い生涯を送って来ました。
自分には、髪の毛を染めるというものが、見当つかないのです。説明書には染める四十八時間前にパッチテストをしなさいと書かれています。
「ワザ、ワザ」
思わずそうつぶやいてしまいましたが、どうやら、そうせざるを得ないようです。
説明書にはパッチテスト用の混合乳液を作り、腕の内側に塗って四十八時間放置するように書かれています。皮膚に異常があった場合はただちに洗い落とし、ヘアカラーをよしておいたほうがいいようです。
自分は必死のサーヴィスでそれをこなしました。
「時間が、ほしいな」
いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、四十八時間は過ぎて行きます。
山田詠美「染める・ミュージック・ラバーズ・オンリー」〜必要なものをそろえ、汚れ対策をする〜
「髪を染めようと思うの」
ハーシーのチョコレートをかじりながら、ジェシカ姉さんは言った。
「どうしたの、急に?」
私がストッキングを履きながら聞いた。
「
白髪が
増えて
きたの
」
そういえば、浴室の鏡に
I HAVE GRAY HAIR!!
と口紅で書かれていた。缶詰のトマトみたいに赤い口紅で。
──彼女は密かに心を痛めていたのだ。
「あれは室温20~30℃の場所でやらないといけないのよ。乾いた髪に使用して、シャンプーは前日までに済ませなきゃいけないの。それに手袋をしたり、床に新聞紙を敷いたり、衣服につかないようケープをまいたりするのよ」
「そんなの面倒くさいわ」
「あら」と私は微笑みながら言った。「準備しないと、きれいに染まらないの」
サン・テグジュペリ「髪の王子さま」〜混合乳液を作る〜
王子さまが次にやってきたのは、「混合液」の星だった。小さな星にキツネが、一匹で住んでいた。キツネはヘアカラーの説明書を見ながら、透明なボトルに薬剤を入れて、何度も振っていた。
「いったい何をしているの?」王子さまはキツネにたずねた。
「混合液を作っているんだ」キツネが答えた。
「混合液って、なに?」王子さまはさらにたずねた。
「髪の毛を染める部分に塗るものだよ。こうやってボトルに入れて30回ほど振ったら、キャップの部分にクシ型のノズルをつけるんだ」キツネはそう答えると、ノズルをつけたボトルを地面に置いた。星の地面には、同じようなボトルがいっぱい置いてあった。
〈おとなって、すごく不思議だ〉その星をあとにしながら、王子さまはそう思った。
林真理子「ヘアカラー入門 頭隠して美女隠さず」〜乾いた髪に、混合乳液を塗る〜
私の知り合いにやたらと髪がきれいな「魔性の女」がいる。あるとき、彼女に美髪の秘訣を聞くと、こっそり教えてくれた。
「ちゃんと説明書どおりやることよ」
白髪の目立つ部分を根本から塗って、頭皮にすり込まないようにしながら全体にムラなく塗っていく、生え際や耳の後ろなど塗り残しがありそうな部分にもう一度塗る、手で根本から毛先に向かってやさしく馴染ませる。そういった細かいことを陰でしっかりとやっているのだ。こうすることで彼女は「美人髪」を手に入れている。
彼女によるとプラダ、バーキン、エルメスといった高級ブランドで身を固めるよりも、きちんと説明書どおりに髪を染めたほうがいいそうである。
「今夜は男とのデイトなの」
彼女はそういって颯爽と去っていった。艶のある髪を揺らしながら。
女の髪は歴史である。白髪の数だけドラマがある。とても華々しい恋愛ドラマが。
村上春樹「髪の歌を聴け」〜20分放置して、洗い流す〜
「ねえ、混合乳液を塗ったらどうするか知っている?」
ヘアカラーで髪を染めようとしている彼女が言った。
「よくわからないな」と僕は首を振った。「あるいは興味ないのかもしれない」
僕はそう言ってウィスキーが入ったグラスに口をつけた。
「混合乳液を塗ったら」と彼女は言った。「20分ほど放置する」*
「
20
分
ほ
ど
放
置
す
る
」
「そのあとは」と彼女は言った。「ぬるま湯で洗い流す」
「
ぬ
る
ま
湯
で
洗
い
流
す
」
髪をきれいに染めたければ、好むと好まざるとにかかわらず、そうしないといけないようだった。
しかし、その髪を見ることはできなかった。彼女は突然いなくなってしまったのだ。だから、彼女がどんな髪の色になったのかはわからない。あるいは染めてなかったのかもしれない。
完璧な染髪などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
*説明書に記載のある放置時間、放置してください。
文/菊池 良
イラスト/流田 桃佳(株式会社LIG)